上杉謙信公!
上杉謙信公
先日武田勝頼公の話しをブログに書いたので、久しぶりに謙信公の話しを。
勝頼公は長篠の戦いにて、織田徳川の連合軍に敗れてしました。その後、武田勝頼公自害、武田氏滅亡。
その後織田信長公は、武田領全てを奪いにやってきます。現在の山梨県、長野県、群馬県の一部です。よって謙信公も長野県(信濃)に迫れば、新潟県(越後)自領が危なくなります。この時点では、謙信公は新潟県、長野県の北部、群馬県、富山県、石川県、のエリアを手中に収め、配下にしていたと思います。
また、関東では、神奈川、東京、埼玉にて、上杉派と北条氏との交戦が激化しており、謙信公への助けを求めてきていました。
この時、織田信長公は、畿内、東海、近畿、北陸、中国地方へと大勢力拡大中です。次は、長野、静岡、山梨、神奈川、関東へと。
そこで、謙信公は1578年正月に、3月に関東(北条征伐)へ出兵すると配下の武将達81名に書状を書き、大動員令をかけました。関東にも大号令をかけ、打倒織田信長を掲げ、関東を平定して武将達をまとめようとしていました。また、なんと奥羽の芦名氏、伊達氏、関東の佐竹氏、宇都宮氏、里見氏、更には、北条氏政公まで、幕下に降り(本当か疑問?)、錚々たる武将を引き連れ、関東から武田領を制圧し、京都へ打倒織田信長だったそうです。3月上旬には、越後春日山城(謙信公居城)周辺に約10万の大群が集結していました。
よって、関東へ進軍して、幕下を増やし、おそらく20万から25万までは集まったかも知れませんが(これは私の推測)、ただ、寄せ集め集団である事、謙信公が実際に采配して勝っていたの自軍1万から2万人の采配だと思います。以前1560年に、小田原城を包囲した時に、約10万の大軍を指揮した事がありますが、ただ、包囲しただけですから、何とも言えません。
よって、織田信長が幾万の兵をよこそうとも、我軍備にはかなわないだろうと謙信公は話していたと言う事のようです。ただ、信長公は、京都を守り、備前、中国地方(毛利氏等)、攻めにも勢力を配置しなくてならないので、現実に起きたらどうなったか?
だが、上杉謙信公は、1578年3月13日、関東へ出陣直前に逝去し、織田信長公は、1582年6月21日本能寺の変が起こり、両雄、志半ばにして倒れる。
私の記憶の範囲での記述なので、不確かも知れませんが、ご勘弁下さい。
上杉謙信対織田信長の対決を観たかったと思ってしまいます。
東松山・比企相続投資サポートセンター 前田

