武田四郎勝頼公!
武田四郎勝頼公!
武田信玄公の後継者、武田家滅亡時の当主です。
1575年の長篠の戦い、織田の三段備えの鉄砲隊の前には、かの有名な武田騎馬隊も敵わず、破れたとの事、ただ、武田勢死者1万、織田勢死者6千、織田勢が圧勝と言われているが、果たしてそうでしょうか?
織田の侵攻(武田討伐)により、勝頼公が新府城を焼き、天目山(現山梨県甲州市)を目指し、逃げていたが、織田からは逃げられずと覚悟を決め、勝頼公は自刃した。公には残っていないそうですが、
最後の側室、同行していた布姫が、勝頼公の子を身ごもっていて、自害は避けたいと、家臣5名くらいで織田の武田討伐から北へ逃れて行き、たまたま比企郡玉川の地に立ち寄り休息していると、親切な村人に良くしてもらい、子を産み、住むようになり、後日、ときがわの山奥の慈光寺と言う寺で勝頼公自害の報を知り、布姫も近くの沼に入水自殺して後を追ったと言う事だそうです。 勝頼公の子は、そのまま玉川の地で過ごされたと言う、その子孫がいるとか?個人的には信じたいですね。450年前の話しです。
また、勝頼公は、戦国最強と言われていた信玄公が築き上げてきた、武田家滅亡を招いてしまい、世間的には愚将と言われているが、この著者は、そうではない。と、私もそう思います。信玄公亡き後、領土は拡大しています。
信玄公のそばにいて、直に采配を目にし、英才教育を受けていたはずです。が、戦国一の武田騎馬隊と恐れられた武田軍だからこそ、織田信長公の考えた、考えた作戦、柵を設置して騎馬隊の動きを封じて、鉄砲を連射する。
勝頼公は、自軍の武田騎馬隊の力の過信と、地の利。柵の設置は、武田軍も把握していたと言う史実が殆どです。信玄公なら、敵の作戦には乗らなかったのではと思いますが、家臣達との軍議をしての決断だったと考えます、武田軍は信玄公時代から戦会議をします。家臣達が全て反対なら、勝頼公も討って出なかったと考えます。織田勢の死者6千が本当なら、この不利な中、勝算ありと考えたのも理解できます。
まあ、あとからでは、何とでも言えますね。
東松山・比企相続投資サポートセンター 前田

