猿ヶ京温泉、日帰りで行ってきました!
猿ヶ京温泉(みなかみ町)、日帰りで行ってきました!
実は、この猿ヶ京の名の由来は、 戦国武将の上杉謙信公がこの地で出陣を祈願し、その日が「申(さる)の年、申の月、申の日」だったことから、「きょうは申か、申がきょう、さるがきょう、猿ヶ京」とこの地を名付けられたと伝えられています。
この名を付けるきっかけは、1560年、我が上杉謙信公が関東平定に赴く時、三国峠を越えこの地(水上)に寄り、
これから関東平定に赴く直前にこの地で休息をしていた上杉謙信公は、夜夢をみたそうです。宴席の時に、自分の前歯が8本も手の中に抜け落ちるという夢です。「戦の前に不吉な夢を見た」と、家臣に話したところ、家臣は「それは片っ端から関八州を手中にする、縁起の良い夢でございます。」と応えた。と、よって、その時に猿ヶ京と名付けられたそうです。
関八州という名称は、箱根の関所から近いことから「関」という字が使われ、「八州」は関東地方の8つの国を指すことから名付けられました。昔は、京都を中心に全国を見ていたんですよ、よって、箱根の関所の先って言う意味です。
具体的には、武蔵(むさし)、相模(さがみ)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、安房(あわ)の8つの国を指します。現在の関東です。
また、上杉謙信公は、関東管領職、いわゆる関東の総理大臣と言う要職を天皇から任さられていました。なので、治安維持の大義名分があったのです。当時、小田原の北条氏が、武蔵(埼玉)に攻め入って来ていました。上杉領であった河越城、松山城、鉢形城の城主は、北条氏に付いたり、上杉氏に付いたりしていました。謙信公は、領土が欲しく攻め入ったのではありません。天皇の命令の基、動いていた、戦国時代では珍しい武将でした。
また、『敵に塩を送る!』と聞いた事がありませんか?
武田信玄公との戦で、信玄公は、駿河の今川氏と、相模の北条氏から塩止めされました。いわゆる経済制裁です。甲斐の国(現在の山梨県)なので、海に接してなく、塩は自力で取れません。
甲斐の民が塩がなく、困っていると聞き、上杉謙信公は、武田信玄公とは、弓矢、武勇で決着をつける。よって、塩は止めることなく、価格を上げることなく、適正な価格で今まで通り商売をするように。と言っただけです。
塩を送った訳でありませんが、まあ、当時としては送ったようなものかも知れません。
後に、豊臣秀吉公が、1590年、小田原城の北条氏を22万?18万?30万?(諸説あり)の大大軍の軍勢で包囲する前に、上杉謙信公が、1560年に10万の大軍で小田原城を一度、約1ヶ月包囲した経緯がある事はあまり知られていません、残念ですね。
まさにその年に、猿ヶ京と名付けたようです。
なぜ、1ヶ月しか滞在出来なかったと言うと、武田信玄公が、信濃(長野)から越後(新潟)をけん制したからです、信濃へ出陣したから、越後に戻らざるを得なかったのです。1561年、かの有名は第4回目の川中島の戦い(謙信公兵力12000人『戦死者3400人』、信玄公兵力20000人『戦死者4600人』)の戦いが行われたのです。結論は、川中島は取り戻せなかった、総員、死者数等を考えると、引き分けと思います。当時の天下取り候補の二人でした。戦国時代最大の戦と思います。時の運があれば、いずれかが天下を取ったかも知れないと。話していたら、うちの奥さんが、高校野球で言えば、地方大会(県大会)の決勝戦レベルでしょ。と水を差してきました。奥さんにはかないません。でも、どこかの地方大会の優勝者が全国大会でも優勝すると思いますよ。と・・・・・
1590年、小田原城が落城し、豊臣秀吉公の実質上の天下統一の完成です。
あと、皆さん一度は聞いた事がありませんか?
【小田原評定:おだわらひょうじょう】と。
秀吉公に包囲され、籠城作戦になり、このまま戦うか、和戦交渉をするか?重臣達が何度会議しても何も決まらない。【いつまでたっても決まらない相談】を例えた話です。そのうち、攻められ北条氏は滅ぼされました。
さらに、行田の忍城の映画、【のぼうの城】は、この時ですよ!
ついつい、話が長くなってしまいした。読んで貰えて嬉しいです。
東松山・比企相続投資サポートセンター 前田
